初めまして 自己紹介①

初めまして、エーワン代表の畠山菊花(はたけやま きくか)です。長野県諏訪市を拠点に、海外展開をしている中小モノづくり企業向けに海外営業支援をしています。


まずは自己紹介ということで、2回に分けてお届けします!

1回目は、「モノづくりとの出会いから、海外系キャリアを歩むまで」の人生前半のご紹介です。

アメリカに旅立つまで

生まれも育ちも長野県諏訪市、現在も諏訪に住んでいます。諏訪湖越しに八ヶ岳や富士山が見える温泉地です。

https://view.japan-web-magazine.com/

3人姉妹の長女で、両親は検査治具を製造する小さな工場を営んでおり、幼少期は、妹達と基盤にピンを立てたり、結線の手伝いをするなど、家の隣にあったプレハブの工場を遊び場にモノづくりとともに育ちました。

中学生になると、当時流行っていた マイケル・J・フォックスの「Back To The Future」シリーズにはまり、毎日帰宅するとビデオを見る日々… アメリカに憧れを抱くようになります。

高校に入学し小学生から続けていたバレー部に入部しますが、英語クラブとの併部はNGと言われ、あっさりバレー部を退部。英語クラブ1本、英語漬けの高校生活をスタートさせます。

アメリカ テネシー州出身の黒人女性のALTの先生と2人で英語クラブを始め、英語の歌をうたったり、ヒップホップダンスを踊らされたり、週2回駅前留学もして、英語にどんどんのめり込んでいきました。

転機になったのは、高2の春休みです。

諏訪市の姉妹都市プログラムで、高校生の交換留学事業に参加しました。2週間という短い間でしたが、アメリカのミズーリ州へホームステイしながら現地高校に通いました。アメリカでは、16歳で車の免許が取れるのですが、ホームステイをしている間も、同世代の学生たちと車で出かけたり、家の地下室でビリヤードしたりと刺激的な毎日を過ごし、帰国してすぐに、両親にアメリカ留学したいと願い出たほどでした。


今自分自身が親になり、よく18歳の娘をアメリカに出したなと思いますが、一度も反対することなく、アメリカ留学を応援してくれました。

1996年3月、アメリカ オハイオ州に向けて、諏訪を旅立ちました。

アメリカ ~大学入学から、NYCでのOL時代~

日本を出発する前に決めていたのは英語学校のみ。ゆくゆくは大学に行きたいと思っていましたが、現地で決めればいいかと、まずは、オハイオ州クリーブランドにある私立大学の付属英語学校に入学し寮生活を始めます。


初めてのルームメイトは、アフリカのガーナからきたSashaという女の子でした。
自炊もできなかった私は、寮に入って数日、シリアルとポテトチップスで食いつないでいました。

見かねたSashaは、故郷ガーナの料理よといって鶏肉の煮込みを食べさせてくれました。見たこともない真っ黒な肌をしていた彼女を少し敬遠していたのですが、彼女の優しさと煮込みのおいしさに、一瞬ホームシックを忘れ、ホッとしたことを覚えてます。

右がSasha

英語学校時代は、皆がうまく英語を話せなかったので、単語やジェスチャーを駆使してどうにか伝えようと試行錯誤。英語がうまく話せなくても友達になれる!

きれいな英語を話すことにとらわれて、なかなかしゃべれなかった私は、この頃から、物怖じせずに英語を話すことができるようになりました。

州立大学に入ると、英語学校とは比べ物にならない読み物の量と、早口の英語に圧倒されます。

毎日100ページ単位のリーディングの課題、復習、プレゼンの用意に追われ、夜遅くまで図書館に缶詰めになる日々。飲んだコーヒーの量も半端ない…

入るのは簡単だけど、出るのは大変というアメリカの大学。

編入をした関係もありますが5年をかけて、2001年に無事大学を卒業しました。(涙…)

日本から駆け付けた父と卒業式

オハイオからNYCへ

アメリカの大学を卒業すると、1年間就労できるビザがもらえます。アメリカで働くためには、この1年間にその先の就労ビザのスポンサーとなってくれる企業を探す必要があります。加えて、就労ビザは大学の専攻と関連した職種でしか申請できないというルールもあります。

社会学・国際関係学を専攻していた私は、人材関連の会社をターゲットに就職活動を開始。

NYCに本社がある日系の人材紹介会社で雇ってもらえることになりました。

NYC

夢のNYC!心躍らせながらNYに到着すると、物価の高さに出鼻をくじかれます。

給料は手取りで20万円ほど、ワンルームでも10万円前後。マンハッタンはあきらめ、通勤に約1時間ほどかかる郊外で社会人生活をスタートします。

働き始めて数か月経った2001年9月11日、あのアメリカ同時多発テロが発生します。

いつものように電話を取ると、日本にいる同僚のお母さんからでした。テレビで、マンハッタンのビルに飛行機が突っ込んだ様子が映っていると言うのです。

慌てて皆で1階へおりて街を見てみると、かすかに黒い黒煙が上がっているのが見えました。それから夜になるまでマンハッタンから外へ出る地下鉄、高速などはすべて封鎖。

NYCの次はニュージャージーでも飛行機が撃墜されるなど、テレビは連日テロの話題。テロの恐怖に怯えていましたが、会社から派遣していた社員や取引先の安否を確認するため、毎日出社し電話をかけていました。

テロと戦うことを決意したアメリカ。9.11を境に愛国を叫ぶ声、人種差別を容認する考えなど、自分の身近な人が変わっていく様子を見ながら、この国に住み続けたいと思う気持ちが薄れていきました。

2003年、7年半のアメリカ滞在に終止符をうち、故郷長野へ戻ります。